私にはふたりのお母さんがいました。
ふたりとも他界し、もう会うことはできないけど、ふたり仲良く同じお墓に入っている。
冒頭から重たい雰囲気になっていますが、お気軽にお読みいただけると嬉しいです!
産みの母
私が4歳の時に亡くなったので、顔も声も記憶に残っていない。
大人になってっから聞いた話。
流産して、その後の処置がうまくいかず、あっけなく亡くなったらしい。
なので私はひとりっこ。
小さいころは、逆まつげと結膜炎で目ヤニがひどかったみたい。
それを朝起きた時に抱っこされながら温かい濡れタオルでふき取ってもらっていたこと。
とーてっも気持ち良かったなぁ
となんとなく覚えている。
あとは散歩?をしていて、川に落ちた時に助けてもらったこと。
なぜ落ちたのか?
川の幅も深さも覚えていませんが、お母さんに川から助け出してもらった!
これもなんとなく記憶の片隅に。
とても活発で天真爛漫な女性だったらしいというのは、なぜか誇らしく思う。
父とわたし 2人の生活
岡山のおばあちゃんが同居している父の兄貴の家に預けられる。
2年間くらいだったなぁ。(私たちの住まいは京都)
その家は私と同級生と3歳下の弟がいた。(しばらくすると妹も産まれる。)
その親戚には本当によくしてもらい、感謝しかない。
けど・・・
どうしても私はよその子と自分自身でひがんでいたのでしょうね。
悪いことをして怒られると、「ふん!どうせよその子やし!」と不貞腐れる。
幼稚園の行事や遠足でも、よその家のお母さんと子供の楽しそうにお弁当を食べているの見るのが苦しく、目を逸らす。
あまりにも寂しく感じ、家出?をしたことも。(家出といっても、500mくらい離れたとこに行くのがやっと。)
「なんで僕にはお母さんがおれへんの?お母さんが欲しい!!!」と心の中で駄々をこねる。
かなり扱いずらい、あかん子やったやろなぁ。
お母さんがきてくれた!
幼稚園もそろそろ卒園というときに、父が知らない女性を連れてきた。
その女性に「僕のお母さんになって!!」とせがんだなぁ。
後からわかるが、それは結婚を前提で私に会わせるためだったよう。
待望のお母さんがきてくれた!!!
もう、最初は「僕のお母さん!」って感じでべったり!
お父さん、お母さん、私の3人で暮らすように。
父も転職し京都から岡山に帰ってきたが、さほど収入が無かったのか、 お母さんも働いていた。
なので、私は家のかぎを首からぶら下げている、 いわゆるかぎっ子。
それでもお母さんがいるので、そんなことは苦にならなかったなぁ。
なんせ、夕方になるとお母さんが帰ってきて、美味しいご飯を作ってくれるんやから。
とくにケチャップでホームランとかヒットとか書かれたオムライス(その時の生活態度で決まります。たまにアウト!も。笑) は、めっちゃ楽しみ!!
でも、小学生の高学年になってくると 「おめえのお母さん ほんまのお母さんじゃねえんじゃろー」(岡山弁) と、同級生から心ない言葉を浴びせられるように。
いわゆるイジメ。結構辛かったけど、ちゃんと支えてくれる友達もいて救われた!
反抗期~育ての母の死
中学生の後半くらいから2~3年は続いたかなぁ。
構って欲しくない時期だったんだと思う。
なんかいちいち言われることが鬱陶しく感じてた。
「もぅ、うるせぇなぁ」(小さい声のつもり・・)
「聞こえたで!何がうるさいん?」
「もおっーーー!うっせんじゃ! クソ○バァ!!」
とか、今から思うとありえへんような憎まれ口を叩いていた。。。
大学も卒業し、無事就職、結婚し、子供も生まれ、マンションも購入。
と、絵に描いたような普通のサラリーマン生活を送っている中、お母さんに癌が見つかる。
ステージ4。完治は難しい。奇跡を祈るも・・・。
約1年半の厳しい闘病生活だったけど・・・。
もう18年になる。
大学から大阪で一人暮らしをさせてもらったので、お母さんと一緒に暮らしたのは、結局12年くらい。
しかもその後は実家に帰るのはお盆、正月の年に2回程度。
今思うのは反抗期のときに、もっと素直になれなかったのかなぁ ということ。
そして本当に今更やけど、もっと一緒に笑いあえたり、楽しんだりする時間を持つことができなかったのかなぁ ということ。
目立つことが嫌いで常に一歩後ろに下がり、でも、周囲への気配りは忘れない。そんなお母さんだった。まさに「孝行したい時分に親は無し」。
ふたりの母に見守られて
私、結構どんくさかったり、不器用だったり。
でも、様々な場面で小さな失敗は数多くしてきたけど、致命的な失敗がないような気がする。
ここっていう時にラッキーなことが起こる!
そして今、仕事にも、家族にも、周囲の方々にも恵まれ、日々、充実して楽しく暮らしている。
最近よく思う。
ふたりのお母さんがちゃんと見守ってくれてるんやろなぁと。